taccuino della foppa

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help リーダーに追加 RSS 小倉千加子講演会

<<   作成日時 : 2004/11/16 22:35   >>

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 今日は小倉千加子の講演会!
 ここ最近、彼女にかまけて、他の事が全く目に入らない状態ではあるけれど、
彼女の講演にだけは・・・行かなくてはなるまい。私のフェミニズム遍歴は、
彼女に始まり、おそらくは彼女で終わるはず・・・と思うぐらい、結構入れ込んでます。
 彼女が愛知の大学で教鞭を執っていた頃には、私は愛知まで行きましたよ。
夏期講座を受けに、わざわざ。で、3日間濃厚な小倉千加子Daysを送って、
その後もまたあるかとウォッチングしてはいたものの、その後は一度もなく、
とうとう大学をやめてしまって、今は短大で非常勤やっていると知った時は、
なんと驚いた事か。それが何故なのか未だにわからず・・・。しかし、まあ、
こうしてまた講演をしてくれるのだから、それは不問にするとしよう。
 私が彼女(の本、話)を好きな理由は、端的に言って、笑いに尽きる!
ほんと、話がうまいし、人を笑わせながら、なおかつフェミニズムを語れる。
そういう人はなかなかいないぞ?だから、彼女の講演は結構人が入るし
(こないだの講演では、満員御礼だったし、今日はどうかな)、リピーターと
おばさん人口のなんと多い事か。(私には常々、”主婦”の人達が彼女の話を
聞いてどう感じるのか、又、矛盾を感じないのかと不思議に思うのだけれど・・・
いつかの本か、講演で、自分の講演は彼女達のガス抜きでしかないと思うと、
徒労を感じる、と小倉さん、言ってたっけなぁ。又、主婦を批判するだけが
フェミニズムでもない事は言わずもがな)
 続きは帰ってから書く事にしよう。

 忘れてしまわないうちに。
 彼女は2年前に大学をやめていて、今は早稲田と聖心(?)で教えているらしい。
そのやめた理由が、なんともウケた。名古屋に行くのが嫌だと?!確かに、
毎日の通勤は楽ではないけれど、表に出された理由がこれだとは(勿論、
明らかにされない理由はあるのだろうけれど)。
 この講演も予想通り、面白かった。2時間などあっというまだ。最初は、静かに
始まるのだが、話していくうちに、というか、人を笑わせているうちに、どんどん
ヒートしていって・・・というのも、いつものパターン。

 最初にメモしたのは・・・幸せについて。50代ぐらいの人達は、人生に一度や
二度くらいは幸せを感じた事があるのに、それが30-40代になると、そんな事は
感じた事がない、という。(何も幸せを感じない事が新しい人なのか?−小倉)。
又、学生の、”何も始まらない、何も終わらない、永遠に退屈が続く”だけでなく、
”5分後に戦争が始まったらいいのに・・・”というコメントを見て、驚愕したらしい。
まさか、戦争まで出るか!みたいな。こういう退屈感を多くの学生が共有している、
と言っていた。確かに、私もひたすら退屈だ、空しい、とは思っていたけれど、
それは自分だけだと思っていたら、そうでもないらしい。この話を聞いて思い出すのは、
”終わりなき日常を生きろ”(だったと思う)。まさに、言い得て妙な形容である。
少なくとも私の人生には、これからもハルマゲドンが起こる事はないし、
起こる事を期待しつつ、実際にそれが起こってしまうと・・・やっぱり嫌だと思うけど。
 毎日が退屈で、心の中に空洞がある人が多い。しかもそういう気分を、
中学〜高校時代から既に持っていて、何をしていても面白くない、生きづらい・・・
と17才は思っている。そのようなところで、17才の人生相談に乗ってみないか、
という誘いがあったので、それを引き受けた。
 そしてまずは、17才の悩みを書いてもらう事にした。それを見ていると、
男女でその悩みが異なる事がわかった。女子は、受験に対するモチベーションが
低いにも関わらず、(親の期待や、自分がしたい事が見つからないからとりあえず)
大学に行くために、受験勉強をやらなければならない状況に置かれている。
そして、競争状態に置かれているのに慣れていない。というのも、これまで
(具体的にはいつの話やら?)大学に行くのは、男子の方が多かったから。

 その後、ジェンダー・スケールの話に移る。大学でこのジェンダー・スケールを
やると、女子の結果が高い一方で、男子のそれは低い、という対照的な
結果が出てくる。つまり、男子に関しては、いわゆる世間的に言われている
”男らしさ”と言われているものをアイデンティファイしていない。言い換えれば、
男性度も女性度も低い子がたくさんいるという事をそれは意味している。
自分はいわゆる”男らしさ”を持っていないと感じる人が多いならば、一体
その”男らしさ”とは一体何なのだ?
 しかし、そのジェンダー・スケール自体を疑ってみる必要がある。それは、
30年も前に作られたもので、既に時代にそぐわなくなってきている。
結果をとやかく言う前に、まずはこのテストそのものを疑ってみる事が
必要とされているのではないか?
 70年代における、いわゆる”男らしさ”とは、知性と行動力に集約されていた。
しかし、これは矛盾するのではないか?というのも、勉強ばかりしている
インテリ(優等生)は、行動していたら(部活、遊び)、学力が落ちてしまうし、
行動力のある人が人のめんどうを見たり、部活でリーダーシップを発揮していたら、
勉強なんてする暇などない。従って、これらは同じ人間に共存するというよりも
むしろ、知性派と行動派の2つに別れざるをえなくなる。特にインテリの方は、
サボテン=植物だ。たまに水をやってやれば、生きていける、そういう人達だ。
サボテンは自ら行動しようとしないおとなしい人間である一方、脂ぎっている
エネルギッシュな人は野蛮というか、女の子を喜ばせるのがうまいというか・・・。
 逆に、”女らしさ”とは、美と従順に集約されていた。しかし、これも”男らしさ”
同様に、同じ1人の人間に求めるのは非現実的であり、はっきりと別れている。
美人は、頼まなくても寄ってこられる事が多いから、というのもあるし、
自分の美に自信を持っているからタカビーになってしまうのに対し、
美という資源がない事がわかっている人は、謙虚に生きなければ
やっていけないから、従順にならざるをえなくなる。
 このように、”男らしさ”も”女らしさ”も、その内容は矛盾しているし、
そのような世間で思われているジェンダー・ロール(gender role)をまさに
体現している人はいないといってよい。
 しかし、世の中はたえず女性性を作り出さなければならない、というのは、
女性性がなければ、男性性も確認しようがないのだから。

 次の話題は・・・女性の行き着くべき結果は、”有名になりたい”という事である。
 全ての子供は今や親の被写体にされている。特に女の子は親から大切に
されているため、身体境界(body boundary)を刺激されている。ますます、
女の子は美のオブジェ、被写体化されている。そして、親以上に自分を
愛してくれる人はいないので、ますます結婚するのが難しくなる(?)。
 上記にも述べたように、男性性(=gender。ここでは、人々の中にある男女の違いに
関する知識。しかし、既にもうジェンダー研究ではこの考え方は古いと考えられている)
同様に、女性性もまた実体としては存在しない虚構、他者の視線で作られた
Illusion(幻影)であり、それ(他者の視線)を意識しながら生きていると、
女性性の行き着く先は、有名(=皆が知っている)になりたい、である。

 多くの研究者が(今の若者に対して)指摘しているのは、自己肯定感の低さである。
それは、自分から見て、他人から羨ましがられる人間ではない、という事を意味する。
そのような、肯定出来ない希薄な自己、情けない自己、本当に存在するのか
しないのかわらかないような自己を処罰したくなる自己処罰感が生まれてくる。

 自己が他者と同一化(自分を抑圧する他者になる事によって、抑圧されっぱなしの
自分を放棄する事)すると、当然、他者は消滅する。これが集団になると、自己の
同一性を失って、集団に同一化してしまう。
 同一化によってもたらされるもの−それは一体感であり、人々はこれを求めている。
しかし、今や皆と一緒にいながらも一体感がないという事もある。例えば、自分は
和食を食べたいのに、グループの誰かがイタリアンを食べたいと言い出した時、
他のメンバーは、そうしよう、と言うならば、自分が和食を食べたい、とはなかなか
言いにくくなり、そのグループに属しながら、しかし、共有された気持ち−一体感が
ない、というように。
 自己の同一性を放棄してまで人に合わせるのを、”共棲”という。共棲状態になると、
もはや自分と世界の間に裂け目がなくなり、逆に言えば、それが出来る事が
恐ろしくなる。
 若年デキ婚とは、まさに共棲状態の例で、彼らは自己肯定感が低い。だから、
自分を肯定してくれる相手を求める。その相手がいる限り、自分の無力感を
忘れていられるし、その相手がいなくなれば、誰も肯定してくれないという恐怖を
抱く。だから、出産し、結婚する。

 ところどころ、埋められないミッシング・リンクがあるものの、総じて、この
講演での(若者に関する、否、私の?)キーワードは、どうしようもない退屈感、
自己肯定感の低さ、といったところか。最後の質疑応答で、なんだったかなぁ、
ある質問に対し、自己肯定感の低い人は、なんとか自分を肯定するために、
自分に色んな課題を与えている、という意味で、自分に厳しい人である、
というような事を言っていたが、これにはうなずかされた。そういう見方も出来るのか、と。
 話を聞いている時は、聞く事に懸命だったけれど、講演後、この退屈感は
一体何故なのか、聞いておけばよかったと後悔した。

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内 容 ニックネーム/日時
私も何故若者は自己肯定感を持てないのかよく考える。気になるのは「勝ち組」「負け組」というキーワード。「勝ち組」と言うけれど、別に誰か・何かと闘って勝った訳じゃない。でも、その言葉を聞くと妙に落ち着かなくなって自分がどちらに分類されるか探してしまう。私が思うに、仕事や学業、家庭の事まで「勝ち」「負け」って言葉で分類する、そしてその事で優越感や劣等感を刺激されるのは、とにかく私達の中に「やり直しのきかなさ」が大きくあるからじゃないかと思う。実際一度ドロップアウトするとそれこそ自分でやり直しのきかなさに溺れて「勝ち組」にはなれない。まるで一回選択を誤ったら何十時間やってもクリアできないゲームみたいに、過ちを犯さないようにいつも用心していて、そして過ちを犯すなんて事になればもう人生ごと半ば投げ出してしまう。だからいきなり仕事辞めてずっと再就職も出来ずバイトもせず引きこもったりするんじゃないかと私は思う。一回くらい失敗しても自分はそこから何か出来る。そう思えないのは自己肯定感の低さからか。とにかく失敗が怖いし、失敗したら後悔でいっぱいになってしまう。私もこのループにはまりかけてるかも。
雲雀ヶ丘皿屋敷
2004/11/18 00:33
 自己肯定感、難しい問題だね。講演の話からすれば、他者の眼差しを意識して生きすぎているのかも。それは幼い時から自分が被写体化されたりする事によって、それが習慣と化してしまっているから、意識しないで生きる事が出来なくなってしまった、のかもしれない。あるいは自分の理想が高すぎる?だから、あまりに平凡な自分に否定的な評価しか出来ない。だから、出来ないとわかった瞬間、全てがどうでもよくなって投げ出してしまう(そして、再びやり直そうという気持ちすらわかなくなる・・・)。all or nothing、そのどちらかしかない−それはずばり私の話。そして、たいていAllなんて事はないから、逆の方向、つまり極端に低い評価しか出来なくなる。そんな事を今、思った。
さぼてん
2004/11/19 19:34

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